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南禅寺

(なんぜんじ)

日本で最も格式の高い禅寺

日本の禅寺の中で最も格式の高い寺院で、京都五山の一つに位置しています。特別な寺院として扱われており、石川五右衛門の伝説で有名な三門をはじめ、堂塔伽藍が美しく立ち並んでいます。

方丈庭園は小堀遠州によって作られた「虎の子渡し」として知られ、江戸時代初期の代表的な枯山水庭園です。事前に予約をすれば、座禅などの体験ができ、南禅会館で宿泊もできます。

二層からなる三門は高さが22mもあり、印象的です。国宝である方丈は、大方丈と小方丈から成り、どちらも狩野派の画家である狩野元信や狩野探幽らによる美しい襖絵が見られます。

南禅寺は、山号が瑞龍山で、南禅寺派の大本山です。本尊は釈迦如来です。無関普門(大明国師)によって開山され、亀山法皇が開基とされています。正式には太平興国南禅禅寺とも呼ばれます。

南禅寺は日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山に位置する特別な寺院で、日本のすべての禅寺の中で最も格式の高い寺とされています。

南禅寺の歴史

草創期

南禅寺の起源は、亀山天皇が文永元年(1264年)に建てた離宮の禅林寺殿(ぜんりんじどの)に遡ります。この「禅林寺殿」という名前は、南禅寺の北に位置する浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂)に由来しています。

離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれており、弘安10年(1287年)に亀山上皇が「上の御所」に持仏堂を建て、「南禅院」と名付けたのが南禅寺の始まりです。後に持仏堂の南禅院は南禅寺の塔頭となりました。

亀山上皇は、正応2年(1289年)に40歳で出家し、法皇となりました。2年後の正応4年(1291年)、法皇は禅林寺殿を寺とし、80歳の無関普門を開山として「龍安山禅林禅寺」と名付けました。伝承によれば、禅林寺殿には妖怪変化が頻繁に現れ、亀山法皇や官人たちを悩ませていました。しかし、無関普門が禅林寺殿に入り、静かに座禅を組むだけで妖怪変化が退散したため、亀山法皇は無関を開山に招いたと伝えられています。

無関普門は信濃国出身で、東福寺開山の円爾に師事した後、40歳で宋に留学し、10年以上も修行しました。帰国後、70歳まで自分の寺を持たずに修行に専念しましたが、師である円爾の死後、弘長4年(1281年)に東福寺の住持となりました。その10年後の正応4年(1291年)に南禅寺の開山として招かれましたが、すぐに亡くなりました。無関の死後、南禅寺の伽藍建設は実質的には二世住職の規庵祖円(南院国師)によって指導され、かつての禅林寺殿の「下の御所」を整備し、永仁7年(1299年)頃に寺が整備されました。最初の「龍安山禅林禅寺」の寺号は、正安年間(1299年 - 1302年)に「太平興国南禅禅寺」と改められました。一山一寧は正和2年(1313年)に後宇多上皇の要請に応じ、上洛して南禅寺の3世となり、正中2年(1325年)には夢窓疎石が当寺に住むようになりました。

建武元年(1334年)、後醍醐天皇は南禅寺を五山の第一としましたが、至徳3年(1385年)に足利義満は自らの建てた相国寺を五山の第一とするために南禅寺を「別格」とし、「五山の上」に位置づけ、更に五山を京都五山と鎌倉五山に分割しました。

この頃には南禅寺は60以上の塔頭寺院を抱える大寺院となり、延暦寺や三井寺などの旧仏教勢力と対立し、政治問題に巻き込まれることもありました。明徳4年(1393年)には火災、文安4年(1447年)には南禅寺大火に見舞われ、主要な伽藍が焼失しましたが、それにもかかわらず、再建が行われました。しかし、応仁元年(1467年)の応仁の乱では市街戦で伽藍が焼失し、再建は難航しました。

近世以降

南禅寺は、江戸時代の慶長10年(1605年)に以心崇伝が寺に入ってから、再建が進展しました。慶長11年(1606年)には豊臣秀頼によって法堂が再建されました。

以心崇伝は、徳川家康の近くで外交や寺社政策に関わり、政治家としても知られました。彼は南禅寺の塔頭である金地院に住んでおり、江戸幕府から「僧録」という重要な地位を授けられました。これは臨済宗の寺院を全国的に統括する役割を果たすものでした。その後、金地院の住持は「金地僧録」と呼ばれ、非常に大きな権力を持つようになりました。慶長16年(1611年)には、豊臣秀吉が建てた女院御所の対面御殿が南禅寺に下賜され、大方丈とされました。

1875年(明治8年)、南禅寺の境内には、日本初の公立精神科病院である「京都府療病院付属癲狂院」(現在の川越病院)が設立されました。

1888年(明治21年)、南禅寺の境内を通る琵琶湖疏水の水路閣が建設されました。この建造物は田辺朔郎の設計によるもので、テレビドラマの撮影などにも使われ、今では京都の風景の一部として広く認知されています。最初は南禅院の南側にトンネルを掘って水路にする予定でしたが、これにより南禅院の亀山法皇廟所の裏を通ることになり、南禅寺が反対したため、現在の形に変更されました。建設当初は古都の景観を損なうとして反対意見もありましたが、南禅寺の三門には多くの見物人が訪れたと言われています。

明治維新直後に南禅寺は政府の圧力を受け、多くの塔頭寺院を失い、廃絶寸前に追い込まれたものもありました。しかし、これらの跡地は邸宅地として再開発され、美しい庭園が造成され、今でも貴重な空間として残っています。

1895年(明治28年)には南禅寺の法堂が焼失し、1909年(明治42年)に再建されました。

1937年(昭和12年)、南禅寺の塔頭で将棋の坂田三吉と木村義雄による対局が行われました。この対局は、持ち時間が各プレイヤーにとって30時間という大試合で、特に木村の▲7六歩に対して阪田が△9四歩と指し、将棋史に名を刻む瞬間となりました。

2005年(平成17年)には、南禅寺境内が国の史跡として指定されました。

境内

大方丈(国宝):

大方丈と小方丈から成り立っています。大方丈は慶長年間に建てられた旧御所の建物で、豊臣秀吉によって慶長16年(1611年)に南禅寺に寄贈されました。多くの文献では「旧御所清涼殿を移築した」とされていますが、実際には清涼殿ではなく女院御所の対面御殿が移築されたものです。小方丈は寛永年間(1624年 - 1645年)に建てられ、伏見城の小書院として使われていた建物です。

大方丈の間取り: 大方丈は六間取りで、南側から順に花鳥の間(西の間)、御昼の間、麝香の間、北側から順に鶴の間、仏間(内陣)、鳴滝の間となっています。建物の東端には幅一間半の細長い部屋があり、これは柳の間と呼ばれています。仏間を除く各室には桃山時代に狩野派の絵師によって描かれた障壁画があり、計124面(附指定4面を含む)が重要文化財に指定されています。これらの絵画は元々旧御所の障壁画でしたが、建物の移築に伴い、襖の配置が変更されました。また、欄間の彫刻は左甚五郎によるものとされています。小方丈の障壁画は狩野探幽に帰属されていますが、実際には複数の絵師によって制作された可能性が高いと考えられています。

琵琶湖疏水の「水路閣」: 1888年(明治21年)に建てられた、レンガ造りのアーチ橋です。写真撮影の名所としても知られています。

鐘楼: 塔頭である南禅院と琵琶湖疏水の近くの高台に位置しています。

三門(重要文化財): 歌舞伎の演目「楼門五三桐」で石川五右衛門が「絶景かな!絶景かな!」と言う有名なセリフを言った「南禅寺山門」がこれです。ただし、実際の三門は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628年)に、津藩主・藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るために寄進したものです。別名「天下竜門」とも呼ばれています。元々の三門は永仁3年(1295年)に建てられ、応安年間(1368年 - 1375年)に新しいものに建て替えられました。しかし、文安4年(1447年)の南禅寺大火で焼失しました。五間三戸(正面柱間が5間で、中央3間が出入口)の二重門で、上層には「五鳳楼」と呼ばれる部分があり、釈迦如来と十六羅漢像などが安置されています。天井画には狩野探幽の作品があります。知恩院の三門や東本願寺の御影堂門とともに、京都三大門の一つとされています。

石灯籠: 寛永5年(1628年)に佐久間勝之が奉納したもので、一般的には「佐久間玄藩の片灯籠」として知られています。高さは6メートルあり、東洋一の灯篭とされています。

勅使門(重要文化財): 寛永18年(1641年)に明正天皇より御所の「日の御門」を拝領し、移築された門です。

中門: 慶長6年(1601年)、細川家の家老である松井康之によって伏見城内の松井邸の門として勅使門として寄進されたものです。日の御門の拝領に伴い、現在の場所に移築されました。以前は脇門と呼ばれていました。

Information

名称
南禅寺
(なんぜんじ)
リンク
公式サイト
住所
京都府京都市左京区南禅寺福地町
電話番号
075-771-0365
営業時間

8:40~17:00
12月~2月 8:40~16:30

料金

方丈庭園
一般 600円
高校生 500円
小中学生 450円

三門
一般 600円
高校生 500円
小中学生 450円

南禅院
一般 400円
高校生 350円
小中学生 250円

駐車場
有料
アクセス

地下鉄東西線 蹴上駅から徒歩で5分

JR京都駅から市バスで30分

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